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探究だよりNo.02

探究だより No.02 ~20250508函館西高「Feel度Walk」+α~

 探究全体講演会があった日の5・6校時に、3年次生14人が、市川先生と、「Feel度Walk」を体験しました。

 3年生14人は、市川先生からレクチャーを受けた後、各自スマホを持って校内を30分間~Feel度Walk~。集めた写真を元に知図を描いてシェアしました。

<レクチャー>

 

 

 

 

 

 

     

 

     <フィールドワーク中?>              <みんなでシェア>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後日、市川力先生から、「スケッチ知図コラージュ」と「エッセイ」が届きました。

<市川先生制作のスケッチ知図コラージュ>

 

 男子2人の「知図」がたまたま隣接した場所をそれぞれ描いたものになっていて、組み合わせたらちょうどその場が再現された。(コラージュの左上)

 「こりゃあすごい!3D知図の誕生だ!」と大盛り上がりした瞬間。

 

市川先生から届いた「メッセージ」と「エッセイ」

 

「函館西高校の高校生の描いた知図コラージュを作成していたら、高校のすぐ近くが生誕地である亀井勝一郎さんの魂がおりてきました。そこで亀井さんの名文「函館八景」という文章を借りて「なりきり作文」。ジェネレーターは「なりきる」ということで駄文ご披露します。生徒さんたちにもシェアしてあげてください。」

 

「函館八景+1 九景目 教会堂近くの高校」~エッセイ~

 

私が世を去って来年で60年である。ちょうど還暦直前だったので、生きた年月と死後の経った年月が同じになるわけだ。私の名前が世に知られたのは入試問題の文章としてよく使われたからであろう。しかし、それも今は昔。入試に私の文章が出ることはほとんどなくなった。私の家のあった本願寺の角には生誕の地の石碑が立っている。それなりに存在感があるので通行する人の目を引くだろうが、亀井勝一郎の名を見ても、一体誰だと思うに違いない。死後の還暦の感慨とはこういうものかと冥界で感じるのである。

 

かつて生家の隣りにはローマカソリック教会があり、その隣りのハリストス教会の間は、道路になっている。私は幼年の思ひ出があるためでもあろうが、山ノ手のこの静かな道が大好きなのだ。

 

教会の塀に沿うて、大きな白楊が立ち並んでいた。二つの塔を左右にみながら、西の方向へ少し歩いてもいいし、また坂道を登ってやや小高いところへ出てもいい。白楊のあいだから港湾全体を一望のもとに眺めおろし、塔と白楊並木との調和を、様々な角度から眺めるのが私の楽しみであった。

 

ハリストス教会の西隣りには、私が少年時代に通ったメソヂスト派の遺愛幼稚園と日曜学校が今もある。そこを通るとき、ふと洩れてくるオルガンの音は幼年の日の思い出だった。

 

久しぶりに下界に降りてみて驚いたのは、ハリストス教会と遺愛幼稚園の間に高校ができていたことだった。函館西高校という名前らしい。

 

校舎に向かう急坂を登ろうとすると男子生徒たちがカメラを持って歩いていた。その脇を通り抜けて校舎の端まで登り切ると今度は女子生徒たちが同じようにカメラを持って何かを撮っていた。

 

 

 

観光客ならば、写真映えする港の景色を撮ろうとするだろう。しかし、あるものは友達の持つ松ぼっくりを撮り、またあるものは石垣の色の違いを撮っていた。それを撮って何の意味があるのかと思えるようなものばかりをあてもなく撮り続けている彼らに話しかけてみると、

 

「なんとなく気になったもの・ことをとりあえず撮っているだけなんです」

 

と言う。なるほどそれは面白い。私は彼らを追って歩いた。30分もすると彼らは教室に戻り、撮った写真をスケッチし始めた。色ペンやクレヨンで撮った写真を模写している。いつの間にかみな没頭し、静かな時間が流れた。

 

描き終わったスケッチは、学校内を歩いただけなのに、さまざま。にもかかわらず期せずしてつながるものが出てくる。あるものが描いた石垣の絵が、別のものの描いた石垣前のたんぽぽを始めとする野の草の絵とたまたま重なる。二枚の絵を組み合わせれば立体的な絵画になっているではないか。これには一同感嘆する。

 

クレヨンや色マジックという画材が、単なる写実ではなく、ささやかな発見への感動の反映された味わいのある絵を生み出す。生徒の描いた十数枚の絵を並べてみると、緑を基調として点々とした黄色に彩られる。春の函館を感じさせる柔らかな気配が現れている。

 

私はかつて

 

繊細な感受性とは、ニュアンスへの鋭敏さともいえるだろう。日本語でいうなら陰翳(いんえい)への愛だ

 

と書いた。彼らは人の影、ものの影、何かが残した跡、そして春の息吹の中で取り残された何かを、つまり、図そのものではなく地となる風景を表現している。「なんとなく」という人に備わった感性を作動させて、心からほとばしり出た素の発見が立ち現れている。確かにこれは見事に「知」であり、「知図」とは言い得ている。

 

期せずして青春の瑞々しさを思い出した。死後改めてこのような体験ができたとは、ぜひこれを八景に続く九景目につけ加えたい。そして天から教会の鐘の音とともに彼らを見守りたいと思う。

 

 以上、市川先生から届いたメッセージとエッセイでした。